2002年6月10日公開



【住環境】

私の最初のNZ滞在がもうかれこれ6、7年も前のことだから、今日でも手に入るのかどうかは甚だあやしいが、当時、現地の書店で "Seasonal work in NZ" という本が売られていた。

NZの北から南まで、各地方で1年を通じてどんな季節労働の口があるか、また就労中の宿泊先はどうするか、といった情報を網羅的に紹介したもので、非常に参考になった。

この本には、果樹園労働者に対しては果樹園がその敷地内に "Sleep out" と呼ばれる専用の宿泊施設を持っていることが多い、とあった。

働き口を探している時点から、当然宿泊先のことも考えなければならなかったのだが、生憎と私を雇ってくれた果樹園はそういった施設を持っていなかった。

かわりにオーナーが紹介してくれた宿泊施設は、かつて近隣で大規模なダム建設が行われた時、工事関係者の宿舎として建てられたもので、普段は地元の専門学校の学生が多く利用しているという。

敷地はとにかく滅茶苦茶に広い。そこに6棟くらいの宿泊棟と、管理人夫妻(と彼等の愛犬)の住居兼フロント兼ランドリーエリア(コイン式洗濯機・乾燥機が置かれている)である管理棟と、広々とした大食堂楝がある。

普段はこの食堂でセルフサービスの食事が安く食べられるらしいのだが、果樹園労働のピークシーズンはちょうど学休期と重なるため利用出来なかった。

そのかわり住人は食堂棟に付属した広いキッチンを好きなように利用出来た。

それぞれの宿泊棟は20室ほどの個室からなり、中央の共用部分にシャワー、トイレ、電話、コモンルームがある。コモンルームには古いがちゃんと映るテレビやソファ、簡単な流しと冷蔵庫などが標準装備。

個室はいわゆる「シングルルーム」で、各部屋ごとにベッドに机、クローゼット、洗面台が付いている。バックパッカーズやユースホステルで相部屋生活を強いられた身に一人部屋はありがたかった。

これで1泊18ドルなにがしかだったと思う。果樹園労働者は週75ドルで利用できた。

街の中心までは徒歩10分、自転車なら5分といったところ。すぐ近くにテイカウェイもあり生活に不便はなかった。

当時この町の宿泊施設と言えばキャンプ場があるだけで他には何も無かったのだが、近年になってバックパッカーズが出来たと言う話を聞いた。

Nelson や Far North など果樹園労働の盛んな他の地方ではバックパッカーズなども季節労働者で溢れたりすると聞いたが、ここではそれほどのことはなかったように思う。

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【仕事がある日】

朝は仕事の始まる1時間前までには起きて、コモンルームのキッチンでトーストなどの軽い食事を摂ってから出勤。

南島内陸部は1日の寒暖の差が激しい。

天気の好い朝などは吐く息も白くなるほど冷え込み、車のフロントガラスが一面の霜に覆われていることも珍しくなかった。真夏だと言うのに朝夕はフリースが手放せない。

これが日中には一転して炎天下(この寒暖差ゆえにこの地方は果樹栽培に適しているわけだが)での肉体労働だ。こまめに水分補給しないとあっという間に脱水症状である。

仕事を終えて帰ると、なにをおいてもまずはシャワー。1日の汗とホコリを洗い流す。

ついでに半パンやタオルを軽く洗濯。それをまだ明るいうちに外に干しておくと、寝る前にはもうパリパリに乾いていて取り込める。

この季節、この地方ではそれほどまでに日が長く、且つ空気が乾燥しているのだ。

夕食は食堂棟のキッチンで自炊。

この頃には他の果樹園で働いている連中や同じ棟の老若男女も夕餉の支度に三々五々集まって来る。その日の仕事や料理の話に花を咲かせるひとときである。

夕食を料理する傍らで翌日の昼食も作ってしまう。たいていはカリカリに焼いたベーコン、レタス、トマトを挟んだ "BLT" というサンドウィッチ。

そうやって料理した夕食を、居合わせた住人のだれそれと一緒にビールなぞひっかけながらゆっくり摂るのが習わしだった。

食後はコモンルームで談笑したり、自室にこもって手紙を読んだり書いたり。

昔の住人が置いていったと思しき "National Geographic" のバックナンバーを読むことも多かった。

テレビはあまり観なかった。観ても内容が分からないことの方が多かったので。

そうこうしているとやっと日没だ。

夜の帳が下りて星が瞬き始める頃にはもうベッドに入って寝る体勢に。

なにせ真夏の日没は午後9時半くらいだから…。

日常はかくのごとく比較的健康的且つ淡々と過ぎたのであった。

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【休日】

土日は同じ棟の住人や果樹園労働者達同士で、コモンルームのテラスや郊外のピクニックエリアでバーベキューをすることも一再ならずあった。

ピクニックエリアには木製のベンチとレンガ製のバーベキュー台が設けられていることが多かった。そこに陣取り、あたりの河原や湖畔から流木を拾ってきて火を焚いて、ソーセージやタマネギの輪切り、ラムチョップなどを焼く。それらをバターをたっぷりなすりつけた食パンに挟んでトマトソースやマスタードで食べる。もちろんビールを飲みながらだ。

後日あちこちで同じようなバーベキューによばれたが、メニューはほとんど同じだった。Greymouth の Railway Hotel の名物 ""$3 BBQ" でも同じメニューだったので、これはもはや Kiwi BBQ のスタンダードと言って良いと思う。

車で Queenstown や Wanaka に繰り出したり、果樹園の貯水池に泳ぎに行ったり、地元のレースコースでストックカーレースを観戦したこともあった。

パブで飲んだりすることももちろんあった。

客と言えば地元住民か、でなければ私と同じように近隣の果樹園で働く季節労働者ばかり。同居人達に誘われて飲みに行って、しかもそこで初めて会った連中のうちの誰かのそのまた友人の家でのパーティになだれこんで、飲んで寝込んで気が付くと朝だった、なんてこともあった。

年末年始はというと、12月31日はフツーに仕事。1月1日だけは休みで2日からは当たり前のように仕事。銀行もお店も当たり前に営業していた。

世の中の動きが止まったかのようになる日本の年末年始とはかけ離れていて非常に驚いた。どちらかと言えばクリスマス休暇の雰囲気の方が日本の年末年始に近かったように思う。

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【同居人達】

宿にはさまざまなバックグラウンドを持った老若男女が住んでおり、こうした隣人達との関わりあいが、より「生活」らしい彩りを私の果樹園労働生活に加えてくれた。

彼等は大まかに定住組と一時滞在組とに分けることが出来た。

夕食を一緒することが多かったデイブは定住組。陸軍の退役軍人で私達若い住人になにくれと世話を焼いてくれた。年金に加えて配管や左官の仕事をしているようで、割とゆとりのある老後を送っているように見えた(息子夫婦と孫が近くの町に住んでいると言っていた)。

一方、私やここで知り合ったTさんなどは果樹園労働者で一時滞在組。

同じく果樹園労働者で、年の頃も近いマイケル、イギリスからの旅行者マリー、アダム達とよく遊んだ。

マイケルは北島のどこやらの牧場の次男坊だと言っていた。物怖じしない性格らしくしょっちゅう仕事仲間の連中を連れて来ては遊んでいた。

NZ人男性らしい胸板の分厚いがっしりした体格で、酔うとけっこう後引き上戸で手のかかることもあったが、面倒見の良いアニキ肌、という感じだった。

他の一時滞在組でよく憶えているのはオージーのボブだ。

知的な風貌の40男で、同じ果樹園で働いていた。同じ宿の同じ棟に住んでいたよしみで、仕事中随分助けてもらったものである。

彼は金鉱脈探しのスペシャリスト(Gold Prospector)で、その筋ではひとかどの人物だったらしい。彼の執筆した雑誌の記事を読ませてもらったこともある。

冷たい川の流れに何時間も浸かって探査機器を操る仕事を長年続けるうちに体をこわしてしまい、長期入院を余儀なくされたのだという。

入院中は当然収入が無く、融資の担保になっていた探査用のハイテク機器もすべて銀行に持って行かれてしまい事業は頓挫、今は復活の資金作りのために果樹園労働に甘んじているとのこと。

今でもたまに思い出しては彼は本業に戻れたろうかと思う。

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こんな暮らしぶりだったので、果樹園労働からの収入はそれほど多くなかったものの支出の方もたかが知れていて、お金のことはほとんど気に病むことなく生活出来た。

困ったことと言えば、娯楽とそれから享ける刺激が乏しかったことくらいだろう。なかなか沈まない夕日をうらみつつ無聊をかこつ夕べも少なからずあった。

英語がもっと堪能であったなら楽しみの可能性も広がったかもしれないが、そこはそれ、「後悔先に立たず」という奴である。

とはいえ、NZ滞在中で一番「一般的なNZの田舎生活の空気」を味わうことが出来た日々だったと思う。「もう少し現地の人々に近い仕事がしてみたい」という当初の目的は十分に達せられたと思うし、それをお仕着せではなく全て自力で見出すことが出来たことは私の小さな誇りでもある。

おしまい