2022年12月13日公開
2019年秋に青森県八戸市をスタートし、現在、岩手県のいわゆる「県北」エリアの沿岸を南下しています。
新型コロナウィルス感染症は、今夏、第7波を迎え、ピーク時には一日の新規感染者数が25〜26万人とかまで増加しました。9月中旬には累計感染者数が2千万人(実に国民の6人に1人)を超えました。
しかし一方、国内では最早特に新たに打てる手があるわけでもなく、緊急事態宣言あるいはそれに準ずるような行動制限を伴う施策が取られるわけでもありませんでした。また、海外ではもう新コロを特別な病気扱いしないという流れになりつつありました。自分としても、現状、個々人が従来の対策(うがい、手洗い、マスク着用)を励行しつつも、それ以外は努めてコロナ以前の生活様式に戻していって差し支えあるまいと言う認識でもって、今回のMSTも予定通り実行することにしました。
他にも国際的には、少し前にパキスタンが大規模水害で国土の3分の1が水に浸かったり、相変わらず膠着状態だったウクライナ・ロシア戦争においてウクライナ側の大規模反攻が始まったり、国内では7月に暗殺された安倍元総理大臣の国葬に関して賛否が渦巻いていたりと、前回、GWに歩いてからしばらくの間にも世の中が随分ザワザワして来ておりました。
今回は、後任の新しい上長へのOJTがそこそこ順調なこともあって、年休を1日使ってシルバーウイークの三連休を四連休に延長しちゃいました。
そして2日目(17日)の宿は、念願の野田村のキャンプ場でのテント泊とし、その分、テント等で荷物が重くなることも考慮して、時間的にかなり余裕を取った旅程を組みました。これなら当日のペースや天気と次第ですが、あわよくば普代駅まで歩けるかも…などと目論んでいたのですが…
朝3時起床。
5時前には家を出て、隣のファミマでモバイルバッテリー借りて、駅前のファミマで食料購入して駅へ。JRの車内は平日らしく大半は通勤客だったが、それでもレジャーとおぼしき風体の乗客の姿そこかしこにあり。
新大阪駅の新幹線改札も結構な混雑。「えきねっと」で予約していた東北新幹線の特急券を発券、旅程前倒しで不要になった東海道新幹線の復路分の特急券をキャンセル。必要なチケットの確保、これにて完了。よしよし、時間に余裕持って行動出来てるな。
さかのぼること二日前、14日(水)の時点で、シルバーウィーク3連休は雨がちになりそうだという予報だった。特に九州〜西日本方面は折から北上中の台風12号、14号の影響が出そうとのことだった。
なので仕事中もずっと(仕事で必要な情報でもあるので純粋なサボりではない)台風情報を注視していたのだけど、どうも19日(月・祝)夜あたり、予報円の中心が本州中部にかかってきそうな感じ。予約してある復路の新幹線が同日21時過ぎに新大阪着予定と、まさに台風に真正面から突っ込んでいくタイミング。おそらく前日の早い時間帯には運休や減便が決定されるだろうから、このままだと最悪、盛岡か東京あたりで足止めを食うかも知れないという状況になってしまっていた。
20日(火)早朝には本州を抜けてそうではあったけど、同日朝、出社するには19日の晩には確実に帰宅してなければならない…旅先で大幅なリスケするのも難儀だし、仕方ない、今回は旅程の短縮も止む無しと判断。
かくして18日(日)晩には帰宅出来るようリスケすることを決意したのが、出発前日の15日(木)早朝のことであった。
17日(土)、野田村のキャンプ場での1泊を諦め、その日は歩けるだけ歩いて、さんてつ堀内駅か白井海岸駅をゴールとする。そして宮古で1泊し、翌18日(日)に盛岡に出て、東京経由でその日のうちに帰阪、というセンでリスケを試みる。新幹線は東北も東海道も乗車日変更で席を確保出来た。が、宮古の宿は一杯で取れず(宮古の秋まつりのためと知ったのは当日現地に着いてからのこと)で、さて困った。
しかしすぐに「釜石まで南下したらなんとかならんか?」と思い付き、釜石の常宿「ホテルマルエ」をチェックしてみると「空室あり」だった。すぐに予約し、なんとか無事にリスケ完了。やれやれ。
テント泊断念は残念ではあったけど、東北地方の週間天気予報を見た感じ、日曜まで天気はもちそうだけど日中の最高気温は30度くらいまで上がりそうとのことなので、まぁテント泊するにはちょっと陽気が良過ぎるようにも思えたし、日中、テントや寝袋込みの大荷物で歩くにはちょっと暑過ぎてしんどくなりそうだし、まぁまぁ理性的且つ妥当な判断だったろう(これは果たしてこの通りであった)。
宮古の「笑びす」での飲食はしかし、諦め難かったので、宮古で途中下車し晩飯呑みすることにした。そして18日(日)は折角なので朝から大槌まつりを見物し、JR釜石線に乗って昼過ぎに盛岡に出て、トレジオンルリエと沢内甚句(ももどり食堂)に寄って美味しいものを飲み食いして、満腹で新幹線に乗り込む!…って結局、今回も強行軍になっちゃったじゃんかよ。
06:24、のぞみ80号、定刻に出発。
関西の本日の天気は晴れ、気温は最高33℃最低25℃とのこと。
家を出た頃は、上はTシャツ(モンベルの薄手ジオライン半袖)1枚でちょうど良いか、幾らか涼しいかくらいだったけど、日が昇ったらもう暑くなってきてしまった。
東京までの道中はいつものごとくひたすら寝た。それでようやくひとごこちついた感じ。(毎度のことだけど)もう少し出発前日に余裕が欲しい。
東北新幹線もなかなかの混雑ぶりだったけど、これまた例のごとく仙台で大勢下車すると、ガラ空きとまではいかないまでも、それほど混んでる感じはしなくなった。はやぶさは仙台の次は盛岡までノンストップ。速いなぁ。
11:20、盛岡に定刻着。曇り空。
八戸行きの「いわて銀河鉄道」(以下、IGRと略)への乗り継ぎ待ちが1時間半ほどあるので、昼食かたがた沢内甚句(本店)に行ってみた。ググったところランチ営業を再開してるとあったので。
おぉ、開いてる!久しぶりの店内、内装を少しやりかえてたけど、全体としては以前のまんまの雰囲気で嬉しい。正午までまだ半時間ほどあったからか、客はカウンターに1人だけ、早昼の勤め人(常連らしかった)が天丼食べてた(んー、天丼も美味そう…)。
帰ってから確認したところ、前回、このお店で飲んだのは2019年の4月、さんてつリアス線完乗旅行の帰途、令和への改元直前のことだった。もうずいぶん昔のことのように感じるなぁ。
これもググって見て美味しそうだと思ったザル天盛りとビールの漬け物でランチ。お酒はビールも日本酒も瓶でしか無かったので止しておいた。
板さんとおかあさんとアルバイト?のお嬢さん。まだ他に客も居なかったので、会計の時、近頃の様子とかを聞いてみた。大女将さんもたまにはお店出てるそうで良かった。今は営業再開して間もないのでランチ営業だけだとのこと。再訪を約してお店を後にした。
腹ごなしに木伏やらフェザンやらを冷やかしてから、IGR駅で切符買って八戸行きに乗り込んだ。IGR盛岡〜二戸。運賃2000円也。
沿線は紅葉はもちろんまだまだ。あちこちで稲刈りが始まってる。道中は曇り空だったが、二戸に着く頃には晴れてきた。二戸にも定刻14:02着。
ここで久慈行きのJR東北バス「スワロー号」に乗り継ぐ。乗り継ぎ時間が短く、ゆっくり駅周辺を観察する余裕なし。二戸駅前の広いロータリーから14:15出発。一見して旅支度の人も含めて乗客は数人。
県道24号、22号、42号線を経由して二戸市〜九戸村〜軽米町を横断し、久慈市に入るルート。県道24号は前回、平庭高原を越えたルートよりアップダウンが激しかった印象。これも前回、盛岡から乗ったJRバス「白樺号」でも通った国道281号線・久慈渓流に合流し久慈市市街に至る。
久慈駅前に定刻15:25着、やっと着いたわー。今回も長い道中だった。
まずは今回も「久慈第一ホテル」にチェックイン。明朝の出発時間を早めたので朝食をキャンセルすると、あっさり宿泊代から引いてくれた。素泊まり一泊5800円也。しかし、ここの朝食バイキングは好きなので惜しい。
それにしても、ここ久慈ですら、まだ「暑い」ってレベルだわ。明日もずっとTシャツ1枚で大丈夫そう。なんでフリースなんて持って来たもんだか。
道の駅とコンビニで明日の朝食と行動食(とお土産)を購入し、一旦、ホテルに戻ってから久慈サウナへ。
今日はお客さんけっこう大勢&ひっきりなしだった。今回は1セット毎に水飲んで、ゆっくり入ってみた。「ととのった」かどーかは知らんけど、早朝からの長駆の疲れがかなり軽減された気はする。やっとスタートラインに立ったって感じ。
サウナでは地元のおっちゃんたちが地の言葉で四方山話。聞き耳を立ててはみるものの、半分くらいしか分からない。が、それもまた楽しい。
サウナの下の階の「つぼ八」で夕飯呑み。サウナ上がって即、生中…最高だなぁ。駅前辺りから練習なのか太鼓やお囃子が聞こえてきた。久慈も明日が秋まつりだそうだ。
ホテルの部屋に戻り、ベッドに横になるとじきにウトウトしてきたので、そのまま寝てしまった21時頃。
03:45、スマホのアラームで起床。正直、もっと寝てたかったが、5時半にはチェックアウトせにゃならん。昨日、道の駅の産直で買っておいた総菜や果物などで朝ごはんをしっかり食べた。
スマホで今日の久慈市の天気予報をチェック。晴れときどき雲り、気温は最高29℃最低15℃とのこと。まだまだ残暑だなぁ。ちなみに自宅の西宮市は最高31℃最低25℃、終日曇り&前述の台風も着実に接近中。
05:35、チェックアウトし駅へ。
さんてつのホームで朝日昇る。幾分、肌寒さも感じたので上着を羽織る。久慈発05:52、陸中宇部を経て二駅目、陸中野田着06:06。運賃400円也。
駅前のベンチで支度し、06:15をもって本日のスタートタイムとする。
今回はまず、逆戻りになるけれど、ウォームアップがてら前回寄り損ねた野田漁港と大唐の倉に向かう。朝日を浴びてキラキラと輝く海。
漁港では水揚げ中の漁船や、横付けしたトラックにフォークリフトで荷積みする様子を見る事が出来た。漁港の様子を覗きたかったら朝は早めに出発しないと、という当たり前のことにやっと気付く。
大唐の倉は、前回、久喜浜の方から遠目に眺めただけだったけど、今回は漁港の一番奥まで歩いて行き、その真下から見上げることが出来た。
【画像】朝の野田漁港
凝灰岩の地層のくっきりした様を存分に確かめて十分に気が済んだので、漁港を後にして来た道を駅方向に戻る。
野田漁港の入口に当たる防潮堤の閘門の脇から、緩やかなスロープ伝いに十府ヶ浦(とふがうら)海岸の防潮堤に上がる。
平安時代の和歌にも詠われたという名勝「十府ヶ浦」、これまでにもこの区間は何度も行き来しているけれど、さんてつの車窓からは真新しい防潮堤が見えるだけで砂浜も海も全く見る事が出来ない。それだけにいつかこの防潮堤の上に立って海側と陸側を眺めてみたいと思っていた。
今回、ようやくその念願が叶って感慨深いので、ここらで一枚、記念撮影しとこうと思ってカメラをセットしかかったところに、朝の散歩に通りがかったお父さんに声を掛けられた。
写真撮影はとりあえず後回しにしてお父さんと話し込む。
地元で漁師をしていて、50年以上、漁船に乗り組み三陸沿岸を北へ南へ、その時々で一番いい値段の付く港に漁獲物を水揚げしてはまた漁場に戻る日々だったとか。だから当然と言うか、堤防から見える山々や出入りする岬や入江の名前や様子、位置関係にとてもお詳しかった。
90を過ぎて、今は毎朝こうして堤防の上を海を眺めながら散歩するのが楽しみだとか。先の震災の時には、何も持たずに奧さんを連れてとにかく高台に避難したとか。今居る新しい防潮堤の陸側に震災当時の防潮堤も現存しているけれど、津波はこの防潮堤を優に超える高さで村を襲ったとか(津波は内陸のさんてつ陸中野田駅まで到達した)。時に身振り手振りも交えつつ、いろいろな話を聞かせてくれた。
先を急ぐ旅で無ければもっとお話し聞けたかなと惜しい気持ちもあるにはあったけど、お父さんも年寄りのペースに合わせてちゃなかなか捗らないだろうからと、先に行くように促してくれたのでお気遣いに心中感謝しつつ、堤防の中ほどでお父さんと別れ、一旦、海辺を離れる。
両側に空地の目立つ通りを村の中心部に向かって歩く。村で一番大きい「愛宕神社」にお参りするためだ。
参道入り口には立派な大鳥居が建つ。防潮堤の上からでもよく見える。
野田村は震災伝承の取り組みのひとつとして、村内の要所々々に「野田村の温故知新」という案内板を設置し、震災当時の様子を伝えているが、そのうちのひとつによると先の震災の時には、この大鳥居も津波による流出瓦礫にびっしりと覆われたとのことだ。
大鳥居をくぐり、急な参道を登って07:55、愛宕神社に参詣。
大鳥居の仰々しさに比べると、本殿の規模感はむしろ慎ましいくらいに思われた。けれど手入れは行き届いていて気持ちの良い境内であった。
境内でひと休みさせてもらってから愛宕神社を後にして、村内の目抜き通りを通って十府ヶ浦公園を経て防潮堤の上に戻る。
この頃になるともう陽射しは熱波と化し始めていて、もちろんジャケットは脱いで上半身は半袖Tシャツだけ。ちなみに今回はハイカットのトレッキングブーツに厚手の靴下、タイツに半パンといういで立ち。
タイツが余計だったかもしれないけど、終盤、何ヶ所か藪漕ぎに近いトレールコンディションに遭遇したので、これはこれで仕方なかった。まぁとにかく、暑さが堪える一日になりそうだ。
さんてつの1両編成の列車が走っていく。いつもはあちらから車窓越しに見ている風景の、今は一部になっている。鉄道のスピードも心地よいものだし、流れていく風景をぼんやりと眺め流す(なんて言い方もアリかな)のも愉しいけれど、自力の五感をフル稼働させて全身を動かして汗かいて、その風景の今日は一部になってみるというのも、なかなか良いものだ。気力体力が続く限り、ずっとこんな機会は持ち続けていたいものだ。
【画像】十府ヶ浦防潮堤北端からの眺め
防潮堤を南端まで歩いて離脱。ホタテガイの形をした展望台「ほたてんぼうだい」…には寄らず、一旦、国道45号線沿いを歩いて行く。
さんてつ「十府ヶ浦海岸駅」に08:50到着。震災後、陸中野田と野田玉川の間に新設された駅。すぐそばに震災遺構「米田(まいた)歩道橋」が整備されている。また、真新しくて清潔な公衆トイレあり。
「くんのこほっぱ跡地」(昔の琥珀の採掘場所跡地・MST標識あり)から国道を挟んで海の方に目をやると、波間に漂う数人のサーファーの姿。とても気持ちよさそうで、すでに汗だくの我が身にしてみれば羨ましい限り。
とはいえ、ここからトレイルは海辺の国道45号線を離れて内陸へ。周囲も山がちに変わり、ゆるやかな登りではあるけれど、道路両側の木々が木陰を作ってくれているので幾分涼しく感じられる。なんとかしのげそうかな。
熊鈴をチリンチリン鳴らしながら歩く。このところ岩手沿岸部でもクマの出没事案がけっこうニュースになってて、先日など野田玉川、田野畑村辺りでも住民がクマに襲われる事件が発生してる始末…万が一、出くわしてしまった時は、ちょっと覚悟しなきゃならん相手だからなぁ。
三陸縦貫道のガードをくぐり、土内という集落に入る。ひなびた良い感じの集落だが、三陸縦貫道を往来する自動車の走行音がうるさいな…やがてトレイルマップにも記載されている某事業所(国土地理院がわざわざ地図に記載するほど大きな企業には見えなかったが)を通過すると、じきに「野田玉川鉱山跡地(マリンローズパーク野田玉川)」に到着。09:40。
敷地内、坑道への入口近くにある「山神社」にお参りしてから小休止。
坑道内の見学も出来るようだし、大きな看板の出ている野田村産ワインもちょっと気になったけど、時間が早いのかまだ開いてない様子だし、まぁ先を急ぐ旅、仮に開いててものんびり寄ってる時間的な余裕が無い…09:50には出発。
ここからはうっそうとした林に両側を囲まれた下り坂が三陸縦貫道のガードまで続く。涼しい。ガードをくぐるとすぐに玉川の集落に入る。国道45号線を渡り、すぐにさんてつ野田玉川駅に到着。10:10。
駅はホームから玉川海岸/太平洋が望める気持ちのよいロケーション。待合室の時刻表を確認。すぐに列車が来るようならば待って写真を撮ろうかと思ったけど、あいにくタイミングちょっとハズれてるようだ。スタートから既に4時間が経過しているし(ちょっとゆっくり過ぎるか?)先を急ごう。
ガードをくぐって玉川漁港に向かう細い車道、路傍にリスを目撃。
漁港では漁師が一人、漁具の手入れをしていた。聞こえるは潮騒のみ。
MST標識「玉川海岸1.0km/十府ヶ浦4.0km」から斜面を登ると、漁港を見下ろす小高い丘に猫の額ほどの平地があって、「西行屋敷跡」の石碑と、和歌の刻まれた大理石の句碑が2基、建てられていた。また、西行法師とは関係は無さそうだけど、月と日の彫られた庚申塔(「文化12年」とあるから江戸時代後期くらいか?)があった。
ここ「西行屋敷跡」は平安末期の歌人、西行法師が歌枕(和歌で詠まれる諸国の名所旧跡)の地として名高かったとされるこの地を訪れ、しばらく庵を結んだと伝えられる場所である。
しかし「陸奥の野田の玉川(みちのくののだのたまがわ)」と言えば、ここよりずっと南の宮城県塩竃市の野田玉川の方が圧倒的にメジャーらしい(江戸時代に松尾芭蕉がこちらを訪れたことで定着してしまったか)。
また「十府ヶ浦」についても、和歌に「十符の菅薦(とふのすがこも・ここは「符」の字が当てられている)」と詠まれたのは、同じく塩竃市の北、利府町辺りの産の茅で編んだ薦(こも=ござ・むしろ)のことだそうだ。
つまり宮城・岩手両県に、南北の位置関係が一致する「とふ」と「玉川」が存在し、それぞれが「歌枕の地」を名乗っているのである。
更に、青森県野辺地町にも陸奥湾に面して「十符ヶ浦海水浴場」があり、周辺は「田辺道」という地名なのだけど、この先、次回歩くことになりそうな普代村にも「太田名部」という地域があることにも気が付いた。
これは、昔は「みちのく」という未知の地域がかなり広く曖昧に認識されていて、地名の重複や混同がかなり頻繁に起きてたってことの現れなんじゃなかろうか。それが江戸時代以降、松尾芭蕉や伊能忠敬とかの業績によって少しずつ固定化されていったものなのではなかろうか…などと、まぁまぁ根拠のあるような無いような想像をしてみるのであった。
とはいえ、大事なのは惹起される詩趣なんであって、どっちが本家かなんてのは野暮てぇもんか。どちらも本家ってことでいいではないか…このままMSTを歩き続ければ、いずれ塩竃市の野田玉川を訪れる日も来るだろう。
ちなみに後日、改めて調べたところ、西行屋敷跡のふたつの歌碑のうち、ひとつには「みちのくの 野田の玉川 見わたせば しほ風こして 凍る月影」とあり、順徳院(鎌倉時代の順徳天皇)の御製であった。
自分の目で見た現地の風景と詠まれた光景を重ねてイメージすると、いつか月影も凍るような季節に、一夜、野営をしに来てみたい、なんて思った。
更に蛇足ながら、歌枕の「たまがわ」は日本各地にあり、「六玉川(むたまがわ)」とも称されるとのこと。グーグル先生は実に博識である。
「西行屋敷跡地」もすぐそばに鳥居が建っていて、玉川神社とある。ここでもお参りする。
さんてつの踏切を渡り、玉川の集落を抜ける。集落の中の通りは旧道らしく、家々の間を車の対面通行は出来なさそうな幅の狭い道路がくねくねとそして上り下りを繰り返す。
道路脇の案内板に従って通りを海側に入り、さんてつの線路を高さ制限2.5メートル、幅も軽自動車すらギリギリかという狭いガードをくぐって「野田玉川野営場」に着く。11:00。ここで大休止。炊事場のそばの東屋で荷物を下ろし、早めの昼食にする。
リスケ前の旅程では、ここでテント泊の予定だった。
野田村の村営で、玉川海岸を望む海岸段丘の上に設けられている。広くはないが手入れは行き届いていて設備もそこそこ過不足無い印象。これで予約不要、利用無料(清掃協力金として巡回管理人に大人一人200円お支払い下さいとのことだが)というのは破格だなぁ。久慈市の侍浜野営場もそんなだったけど、まぁ有料で予約制とかにすると、却って管理が大変になっちゃうのかもな。なんにしても有り難い。
今日の利用者はテントとタープを張ったパーティーが一組だけらしい。装備を見た感じ、家族連れが連泊している様子。誰もいないところを見ると、どこかに買い出しにでも行っているのかも知れない。
お爺さんが白い犬と散歩に来てた。犬も人懐っこく可愛くて胸キュンだったが「このコも(私と同じで)後期高齢者でね」(たぶん持ちネタ)ってお爺さんにも胸キュンだった。どちらがどちらの散歩に来ているのやら。
野営場を11:30出発。先ほどくぐったさんてつのガードのそばにMST標識「玉川海岸0.2km/十府ヶ浦4.8km」あり。利用者数調査用のカウンタが設置されていたが、珍しく押すのを忘れて通り過ぎてしまった。
先ほどの狭小なガードはくぐらずに、線路に背を向けて海の方向に林の中の小径を歩くとすぐに海岸に出る。玉川海岸だ。
【画像】玉川海岸にて
今、ちょうど干潮の時間帯のはずだが(潮見表で調べて来た)、思いのほか波打ち際が近い。満潮時だとかなり怖いかもな…と思いつつ、堤防の上を歩いて南下。
堤防の突先まで行ってみたが、トレールまたはトレールを示す目印が見当たらないので、一旦、引き返して改めて地形をじっくり観察した。すると堤防の中ほど辺りに、雨が降った時だけ水が流れているらしい隘路があることに気付く。ところどころ背丈ほどもある藪だったが、こちらが正解だった。すぐに藪は途切れて林道に合流し、林道の入口が国道45号線に面していた。
国道を渡り、歩道が無いので路肩を車に気を付けて歩くことしばし、山側に上っていく脇道との分岐に着く。MST標識「玉川海岸0.7km/堀内駅6.3km」あり。また、すぐ近くの交通標識には「仙台まで339km」とも。
一番気温の上がる時間帯に差し掛かってはいたけれど、ここからしばらくは上り坂続きとは言え、ずっと木陰の下を歩けるので随分助かる。足下は最初はアスファルトだったけど、そのうちに非舗装になり、車の轍のところ以外は敷かれた砂利の上に落ち葉が溜まっていて歩き易かった。
風に揺られた梢からどんぐりが落ちる音や、時折聞こえる野鳥の鳴き声に足を止めたりしながら、人っ子一人居らず、車の往来も全く無い道を独り占めにして歩いた。
国道の分岐から約50分ほど歩くいたところで林道は途切れ、内陸方面に向かう舗装路に合流した。MST標識「玉川海岸2.8km/堀内駅4.2km」あり。ここで12:50。ここから「国民宿舎えぼし荘」に向かって下っていく。
時折、地元住民のものと思しき車の往来があったが、歩道が無く路肩歩行だったので注意が要った。ちなみにこの辺りでは三陸縦貫道はトンネル区間であり、その存在はまるで意識しなかった。
やがて前方に「えぼし荘」の赤いトタン屋根が見えてきた。13:20、「えぼし荘」裏を通過。ここで海抜は約80メートル、さすがに国民宿舎が建てられるだけあって太平洋の眺めが素晴らしい。
ここから先、さんてつ堀内駅に行くは、国道45号線まで下りて国道沿いを歩くのが最短の様に見えるのだけど、トレールは一旦、内陸側に反れ、三陸縦貫道の安家(あっか)大橋の更に上流まで迂回する。
そもそも、玉川海岸からここまでの山中を歩いた区間にしても、何故わざわざ最短且つより平坦な海辺の国道沿いを避けているのかと疑問に思い、帰宅後、グーグルのストリートビューで国道沿いを観察してみた。結果、国道沿いの歩道の無い区間を避けるためと思われたがどうだろうか。更にうがった見方をすれば、所管官庁が異なる(国道は国土交通省、MSTは環境省)ことも関係しているのかも知れない。が、まぁこれは憶測の域。
ともあれ、「えぼし荘」を、正面に回らず裏手を抜けてやり過ごし、緩い上りの脇道を歩いて行くと、何やら背広姿の銅像がこちらに背を向けて立っているのが見える。
正面に回ってみると、銅像と大理石の碑文を埋め込んだ石碑がある。いずれもなかなか立派なものにも関わらず、トレールマップにもグーグルマップにも具体的な説明が見付からない。
銅像の銘板には「島川直英翁之像」とある(揮毫は元・内閣総理大臣鈴木善幸…と思うが判読に自信なし)。
島川翁はここ野田村安家に生まれ、今日のこの地域の重要産業である鮭の稚魚ふ化放流事業の確立に多大な貢献のあった人物とのこと。
碑文によれば、明治三陸大津波で家族全員を亡くし天涯孤独となるも、当時の帝大を卒業して中央官庁の官僚を務め、退官後には弁護士業の傍ら私財を投げ打って件のふ化事業に取り組んだりと、なかなかドラマチックな人生を送られたよう。頭脳明晰・成績優秀ってだけじゃなくて、志も高い立派な方だったんだろうなぁと想像。昔の人は偉かったんだなぁ(我々世代も頑張らねば…と感じた次第)。
島川翁の下を辞去して程なく、トレールは安家川の北岸斜面の林の中を下って行く。トレールの入口付近に「縁結びの木」と言うのがあって、ブナとセンノキという2種類の木が寄り添うようにと言うか一部絡まりあって生えている。センノキとブナでは樹皮の色が全く異なるので殊更その絡み具合が際立って見える。それが頭上の梢となると青葉はどちらがどちらか見分けがつかなくなっていて、あたかも1本の木の大きな樹冠のように見えるのも面白いと思った。ちなみに後日、ググってみたところ、島川翁の碑とこの縁結びの木のある辺りを「下安家園地」と呼ぶらしい。
【画像】縁結びの木
金属製の手すりが設置されているほど、意外にラフなコンディションのトレールを下って行くと、川の中洲に立派な養魚場のような施設が見えて来た。これが島川翁が創設した下安家漁協の「下安家さけ・マスふ化場」だ。
先の震災ではこの施設を含め辺り一帯でも大きな被害を出したというが、今は復旧・復興の整備も一段落したのか、工事車両など、周辺に往時を想起させるようなものは特には見当たらなかった。
三陸沿岸道路の安家大橋をくぐり、国道45号線に再合流。下安家漁港をカメラに収め、国道沿いの歩道を南へ。明確に「ここから!」という標識の類いは見当たらなかったように思うけど、ともあれ普代村に入った。
ちなみに野田村は岩手県九戸郡、普代村は下閉伊郡に属しているため、村境と郡境を同時に越えたことになる。
もうひとつ南の田野畑村も含めた野田・普代・田野畑の3ヶ村は、いずれも南部または西部で岩泉町と接している。余所者の勝手な思い付きで言えば、北の野田村はその北隣の久慈市に、南の田野畑村は南隣の岩泉町に、真ん中の普代村はどっちか都合の良い方に、それぞれとっくに吸収合併されていても良さそうな気がするのだけど、3ヶ村それぞれに小さいながらも独立した自治体で居続けているのには何か事情があるのだろうか。その疑問を解くヒントやきっかけが何かしらこの先の行程で得られることに期待する。
さて、堀内集落に到着。14:00。既にスタートから8時間弱が経過。
2019年の4月中旬、さんてつリアス線の全線開通直後、さんてつ全線乗り旅行をした時に、堀内駅降り・乗りで大沢橋梁の写真を撮ったり「レストハウスうしお」でランチしたりした。
なので事実上、初めて来たんじゃないけど、今回、改めて歩くために来てみた。歩いて来てみた。これはこれで感慨深いというか、やはり何とも言えない嬉しさがある。
グーグルマップで事前調査していて見付けた幾つかの興味深いスポットを訪れてみようと思ってたのだけど、西日の一番厳しいこの時間帯だし、ここであまり長居すると先の行程が…今回は無理せずここ堀内で切り上げても良いのだけど、そうすると次回の行程がかなりタイトになるよな…と考えて、堀内集落散策はまたの機会にと決めて、先を急ぐことにした。
堀内駅のトイレは前回来た時と同様、正直あまりお借りしたくない佇まいだったので、堀内漁港の少し先、「まついそ公園」で小休止することにしてスルーした。
まついそ公園の東屋で小休止。水飲み場の水道も通じていたので飲料水も補給した。自動閉栓式の蛇口で、水が出しっぱにならないようになっていたのには感心。これはもっと普及して良い技術。
まついそ公園からは、野田湾を挟んで北方の海岸線をこの春越えた三崎まで一望出来る。こうして改めて眺めてみると、まぁまぁ歩いて来てるよなぁ(先はまだまだ長いとは言え)。まついそ公園14:30出発。
「さんてつ大沢橋梁」は沿線屈指の有名な見どころなのだけど、前回、下の沢漁港からも上のレストハウスうしおからもそれぞれ通過するさんてつの列車を眺めていたので、今回は特に執着せずに通過。
15:00に大沢橋梁の南側、沢漁港の南に架かる橋を渡る。MST標識「堀内駅1.6km/普代駅9.0km」あり。集積されたテトラポットの脇を歩いて行くと、山の方に入っていく地点にトレールのマーカーが見付かる。
ここからの登りは少し堪えたけれど、日は早くも傾き始めていたし、ずっと森の中だったので快適だった。気持ちの良い森を30分ほど歩いた。
投棄ゴミが目に付き始める=車の通れる道路and/or集落が近いというサインだが、今回はなかなかの大物だった。漁船が1隻、放棄されてた。
【画像】白井集落近くの遺棄された漁船
その先で白井の集落の道路に出た。15:30。この道もおそらく野田玉川から続く三陸浜街道の一部だろう。沿道の様子を眺めつつ歩いて行く。
乗る予定の宮古行きのさんてつが16:45発、まぁここまで来たら余程道に迷いでもしない限り余裕で間に合うだろうが…
ほどなく追分(道の分岐)に着いた。左が海の方角なので素直に左手の道を往けば良いのだろうけど、なにぶん自分の方向音痴さ加減にも自覚があるので、地図と周辺の道路の形状などを慎重に吟味。
ここで道を間違えると予定のさんてつを逃す可能性が出てくる。しかもおそらく陽が落ちて急に暗くなり始める時間帯になってしまうので、更に道に迷うリスクが増すから。
かなり急な舗装道路をどんどん下っていく。左手に山の斜面、方角的にその向こうが海岸線だから、おそらくこの道で間違いないだろうけど、「もし間違ってたら、この急坂を今度は上って戻らなきゃならんのだぞ…」と、周囲の地形に気を付けながら歩いて行く。
そうして下って行くうち、前方からおばあさんがひとり、歩行器を押しながら上ってくるのが見えた。おそらくどこかにおでかけして、白井海岸駅で下車して集落に帰る途中なのだろう。十府ヶ浦海岸駅でも、同じように駅から歩いて行くおばあさんをを見かけていたので、この道で駅に着けることをようやくほぼ確信出来た。
それにしても、舗装されてるとは言え、老人が一人、この険しい坂道を一歩々々上っていく足取りを見ていたらなんだか心細くなった。きっとずっともう何十年もこうして暮らして来られたのだろうけど。
16:00、さんてつ白井海岸駅に到着。今回の行程はこれにて完了とする。スタートが06:15だったから、所要時間9時間45分。軽装とは言えこの暑さの中、まぁまぁ頑張ったってことにしておこう。
さてこの駅は、秘境駅としてテレビで紹介されたこともあるそうで、確かに周囲には家も店も自販機も何もない。単線ホームで屋根下にベンチと案内板があるが、壁は無く吹きっさらしなので寒い季節には堪えそうだ。トイレは仮設トイレが大用小用各1基計2基が連結して設置されている。
トイレのそばの水道、蛇口を捻ると幸い水が出たので、さっそく拝借して顔を洗う。どうせ人目もあるまいと、汗まみれの衣服を脱ぎ、濡れタオルで体を拭って着替えてこざっぱりして列車の到着を待つ。
【画像】さんてつ白井海岸駅
上りのさんてつ白井海岸16:45発・宮古に定刻着17:45。
着いてみると宮古も秋祭り。なるほど、さんてつにしては珍しく(と言ってはなんだが)オシャレした若者や家族連れが大勢乗ってたのはこのせいか。駅前の大通りが歩行者天国になってて、正直、ふだん何処にこんなに人が住んでんのかってくらいに賑わってた。
例によって「笑びす」で一人慰労会開催のつもりだったけど、お祭り営業てことで、今夜はテイクアウトメニューをイートインでならば、とのこと。
折角だし、おまつりの「にぎやかし」になっとこうか。ビール2杯と酒(赤武)そしてフード全種類(4種類だけど)で、ほろ酔い加減に。
そう言えばこのお店、確か初めて来店した2020年の秋が開店1周年だったから、開店してすぐにコロナ禍になって、今年が初めての秋祭りなんじゃ?
地元の顔見知りや常連さん?と思しき人たちがひっきりなしに立ち寄って声かけたりかけられたりで大将も忙しいそう&嬉しそう。地元住民に愛されてるんだなぁとこちらもなんだか嬉しくなった。とはいえ、この店で地元産食材の料理を飽食するのが目下のMSTの重要な楽しみの一つなので、次回来た時は今回の分まで頑張ろうと誓う。
ちなみに久慈も大槌も遠野もこの週末がおまつりだそう。台風が来なくて当初の計画通りの旅程だったらこの流れをスルーしてたかも知れない。
上りのさんてつ宮古19:34発・釜石に定刻20:57着。
なにかもう少し食べたい気がして、釜石駅前のローソンでカップヌードルなど購入。ホテルの真ん前、甲子川の川原に鹿の一家を目撃。ゆうゆうと草食んでたのでスマホで動画撮ったった。
ひさしぶりの常宿「ホテルマルエ」にチェックイン。部屋で手早く荷解きして、大浴場で長めに風呂に入ったら、なんだかもう何も食べなくても良いような気分になってた。一緒に買ってきた缶チューハイだけ飲んだ。カップヌードルはお土産だな。まぁ、もう23時過ぎだし、その分は明朝、朝御飯をしっかり頂こう。
朝、4時くらいに目が覚めて、5時半頃、起動。ちょっと眠いな。スマホで天気予報チェック。釜石で晴れのち曇り、最高29℃最低22℃とのこと。今日も暑くなりそう。台風は今、九州。なんとか今日中に関西までは帰れるんではないかと思う。予定どおりに進捗しよう。
ホテルを07:30にチェックアウトし、さんてつで大槌へ。
大槌で下車し、小鎚神社から出発する神輿渡御を見物した。
帰りの釜石行きの発車時刻に合うタイミングで大槌駅前で奉納舞いがあったので、それに合わせて半日だけにぎやかし。渡御の連を追いつつ、小鎚神社から大町地区の辺りの町の様子を眺めながら歩いた。
途中、休憩かたがた「おしゃっち」に入ってみた。展示も充実しているし、設備・サービスも良かった。地元の子供たちがフリースペースを勝手知ったように利用している姿も好印象だった。
また「大槌ジビエ」がキッチンカー出店しているとの事前情報があり覗いてみると、ジャーキーとサラミも売ってたので自分用とお土産用に購入。
こうして図らずも今年の「大槌まつり」を一部分、つまみ食いだけど見物することが出来て思ったこと。
3年ぶりの開催ってこともあって熱気も一層高まってたのだろうとも思うけど、さまざまな伝統芸能の連の人たち、中でも若い世代の人たちは、多分だけど、あの震災の始まった当時、小学生か中学生くらいで、その人たちが今こうして、新コロ禍への対応も強いられながらも、この町一番のお祭りを盛り上げていて、中には自分たちの小さい子供たちに同じ連のお揃いの装束を着させて参加している姿もあったりして心和んだ。
ボランティアで関わっていた頃に、いつかこの町がこんな風になってくれますようにって願い思い描いていた姿をそのままに見せて貰えた、そんな気がした。
自分の関わり方が一方的な思い入れに過ぎなかったとしても、そうであってすらこんな風に報われたのだから、関わってみてやっぱり良かったじゃんと素直に思えた。
【画像】大槌まつり・小鎚神社神輿渡御の様子
さんてつ大槌11:02発・釜石11:23着。釜石で盛岡行きJRに連絡。乗り換え時間5分しかなかったけどなんとか無事乗り継いで一安心。釜石線沿線は稲刈りがあちこちで始まったところ。本格的になるのは来週くらいかな?
盛岡には定刻13:43着。
早速、トレジオンルリエのランチビュッフェに滑り込んだ。新メニューのハンバーグを頂く。ランチが15時までと言うことなんで、そんなに長っ尻にも飲めないので早々にお会計。
さて、新幹線の時間までまだ大分あるけど、と言ってこのまま沢内甚句に流れるのも早いし、ランチビュッフェでそこそこお腹いっぱいになっちゃったんで、木伏緑地のデッキに寝転がって小1時間昼寝。湿気は感じたけど暑くも寒くも無く、ブーツ脱いで裸足で寝っ転がってウトウト。
16時過ぎに沢内甚句ももどり食堂に入る。さすがにちょっと疲れたのかあまり食が進まず残念。それでも突き出しと軽いものを肴にビール一杯、赤武二杯、焼きおにぎりとひっつみ(まぁまぁ食ったな)で締めた。
フェザンでお土産を物色するも特に食指が動かず。まぁ11月にも来るからなとスルー。それに要所々々、良い買い物出来たと思うから、今回はこれでヨシとしよう。
東北新幹線、定刻18:16発。車内・駅構内共にまぁまぁの混雑。
東京でのぞみに乗り継ぎ。車内アナウンスによれば、明日はやはり台風対策で16時から名古屋〜新大阪間の運転取り止め決定とのこと。東京〜名古屋間もかなり減便する予定だとか。
新大阪に定刻23:15着。気温は新大阪も盛岡もあんまり変わらない感じ。23:28発姫路行き快速で西宮に帰着。
最後にあとひと片付け。借りてたモバイルバッテリーを隣のファミマで返却。これにて今回のミッション完了。帰宅するとちょうど24時ってところ。ぎりぎり今日のうちに帰れた。
*
結局、直前の大リスケが大正解だった。この暑さでキャンプもしんどかったろうし、キャンプ用装備で白井海岸まで歩くのもしんどかっただろうし、その上、月曜のうちに帰り着けなかった可能性が大きかったし。
それにリスケしたおかげで宮古の秋まつり、大槌まつりもそれぞれちょっとずつだけど見物出来たし。かなりの(これまでで一番かも)高圧縮日程になっちゃったけど、よく頑張れた。まだまだもっと遠くまで行ける!という気持ちにもなれた。
そして「まぁ11月にも来るからな」ってのは、実は11月にSL銀河に乗りに来るって決めてて(今回の旅程はそれも視野に入れて組んでて)。
で、SL銀河だけってのもなんなので、MSTも普代村から鵜鳥神社への参詣コースを歩こうと思ってて。難しいかもだけど、今度こそ十分に余裕のある日程を組みたいもんだわ。