1999年10月10日公開/2002年12月10日加筆・訂正
思い出すたびに、なんつーかこぅ、胸の締めつけられるような気分にさせられる 出会いとか、場所とか、あるでしょ?
そういったものの数が多いというのは幸せなことだと思うし、「人生の充実度のバロメーター」みたいなもんにもなると思う。俺自身、これまで「バロメーターかなり高目」の人生を送れてきたと思っている。
長く旅をしている人を羨ましく思うのは、そんな風に思い入れ出来る人や街や出来事が世界中至る所に出来るからなのだと思う。
俺にもそんな街がある。Queenstown もその一つだ。この街には都合半年ちょっと住んでいたことになる。生まれて初めての海外生活で。最初に落ち着いた街だった。
Lake Wakatipu 湖畔の、猫の額ほどの平地に拓けたこの街。湖を挟んで聳え立つ Cesil Peak、急峻な岩肌が朝夕には桃色に染まる Remarkables Mountains…これらの風景をバックに「湖の貴婦人」と謳われた TSS Earnslaw が日に数回、汽笛を響かせて湖面を行き来しているさまは、毎日見ても飽きることのない美しさである。
Bungy Jump をはじめとしたアクティビティのメッカであり、夏場にはツアー客を満載した観光バスが引きも切らない。そして冬には近隣のスキー場目当てのスキーヤー、スノーボーダーが国内外から押し寄せる。
旅行者の流れが絶えずもたらす活気と美しい景観とがマッチして、まさにその名の通り「女王が住むのにふさわしい街」だった。
この街にカジノを建てる、という計画が持ち上がったのが、今を去ること数年前、私がまだ住んでいた頃のことだ。住民の多くがカジノの建設に反対し署名活動などを行ったが、結局、建設計画は実現の運びとなった。
New Zealand では北島 Auckland、南島 Christchurch にそれぞれ既にカジノが建てられている。
そのうち Auckland の方には私も行ったことがあるが、やはり博打場と雰囲気と言うのは万国共通のものらしい。見た目をいかに華やかにきらびやかに装っても、特有の不健全さを隠し通すことは出来ない。
チェーンスモークしながらスロットマシーンに突っ込んでるおばはんとか、ルーレットに熱くなってるいかにも小者風の小汚いおっさんとか、そこいらのパチンコ屋とおなじ退廃的な匂いがする。およそ「健全」とは程遠い。
というか、カジノなんて、地元にも多少カネが落ちるとしても、それと同時に垂れ流される害悪のことを考えれば全く割に合わない。
敢えて断言するが、一度でもこの街を訪れことのある人ならば、ここにカジノを建てようなどと決して考えまい。私自身、ギャンブルも好きだしカジノも悪くないとは思うけれど、「この街には絶対ふさわしくない」と言う理由で、建設には反対だった。
「ギャンブルは道徳的に良ろしくない。だからカジノ反対」といった、紋切り型の反対意見は、私が見た限り主流ではなかったように思う。おそらく多くの地元住民も、私と似たような考えを持っていたに違いない。
にもかかわらず強行されるカジノ計画。もぅあからさまに「世界屈指の観光地→客がたくさん見込める→カネが儲かる」式の短絡的・拝金主義的・土建屋的・帝国主義的・没趣味的欲ボケ根性丸出し。
圧倒的な数の住民の署名に基づく「住民投票条例制定」案を否決し、住民の総意を反映する手段を封じた上で採択された、神戸空港建設計画と同じだ。要するに、「計画」が発表された段階で、既に住民に口を挟む余地は残されていないと言うわけだ。
New Zealand 人というと、「牧歌的で朴訥で良い人達ばっかり」みたいなイメージがあるけど、必ずしもそんな人達ばかりではないということだ。
世界中の他の国同様、この国にもやはりモノの値打ちの分からないクソヤローどもが確実に存在し、カネの力にモノを言わせてくだらない真似をして、確実に世の中を腐らせて自分達だけ甘い汁を吸おうとしているというわけだ。こーゆーヤツラにとっては、街の環境とか雰囲気とか、住民の意向とかいった 「金額」に換算できないもの –そして実は一番大切なもの– はどーでも良くって、ただ、そこに金儲けのチャンスがあれば、それを実現して、カネにする。それだけだ。
結局、カジノは建った。ビジネスはビジネス、マイナス面プラス面を天秤にかけたうえで建つべくして建ったのだと、ビジネスライクに考えればさほど憤ることではないのかもしれない。
それにカジノが出来たからと言って、即この街がろくでもない街になるとも考えにくいし、思いのほかうまいこと行くのかもしれない。
ただ、この美しい街にカジノを建てようなどというセンスの人間(達)の方が、この街の命運に対して私よりも –そして反対派住民達よりも– 強大な影響力を持っていたということを口惜しく哀しく思うのである。