2004年08月25日公開
明け方、一度目が覚めた。夜明けだ。寝台のぬくもりが気持ち良いのでもう一眠りする。
次に目を覚まして腕時計を見ると8時になっていた。昨夜、バラビンスク(3035km)を発車後に本格的に眠りに就いたので、正味7時間ほど寝たことになる。
眠い目をこすりつつ車窓越しにキロポストを確認すると2510kmだ。次の等時帯との境界までわずか13km、少し早いが時計を1時間戻して7時にする(モスクワ+2/日本-3)。
ぼんやりしているうちにイシム(2428km)に到着した。
ディマが起きるなり朝食の支度を始めたので、一緒に食べることにする。彼はパンとイワシの油漬け缶詰、それにキュウリとトマト。私はチキンラーメンとワカメスープを合わせてマグカップに作り、あとはイルクーツクで買った黒パンの残り。デザートはリンゴだ。
ディマが勧めてくれるので、イワシ、パンに乗せて食べてみる。美味い。
昨日、結局、セルゲイとアクサナとの入れ替わりは誰も乗って来ず、コンパートメントはディマと私の2人だけになった。
夕食を食べながら改めて自己紹介、といった感じで話をしたのである。
彼はアンガルスク出身の31歳、職業は交通警察官、一男一女の父だそうだ。
夏期休暇を使っての旅行で、モスクワで乗り継いで南方に向かうのだそうだ。
一昨日、乗車して来た彼を最初に見た時に、筋肉質の体格、短く刈った髪、グレー系の迷彩Tシャツ、といった風体から軍人か警官だろうと思った。さらに胸元からドッグタグ(名前や血液型を彫り込んだ金属製のプレート)が見えたので「軍人かな?」と思ったのだが、そうズレた読みではなかったらしい。
意外とお喋り好きらしく、セルゲイ達がいる間はだいたいどちらかと喋っていたし、コンパートメントを出てしばらく戻って来ないと思ったら、車掌さんと談笑していたり…そんなわけで車掌さんとは既に随分懇意になっているようであった。
彼が毎食必ずと言って良いほどトマトとキュウリを食べるので、「野菜たくさん食べるね」と言ったら「体にいいのからね」と予期した通りの返事が。また、私が見た限り乳製品もあまり摂取していないようだった。
単純に嗜好なのかそれとも健康志向なのか…前述のやり取りからは後者のように思われるが…。
ロシアでは年齢が高くなるほど肥満体型の人が目立つが、今日の若い世代辺りを境に変化していくかもしれないな、などと考えた。
昨日、ノヴォシビルスクを通過してから、車窓風景に更に変化が加わった気がする。
列車の両側には相変わらず広大な平原や森林が広がっているが、あちこちに高速道路が現れてはバスや大型トラックと併走したりするようになったのだ。
時折通過する街の駅舎や町並も、より整然と、より恒久的な佇まいを帯びてきているように感じられる。総じて、西へ行けば行くほど文明的になっていくようだ。
また、イシムを過ぎた辺りから、駅の構内に枕木を付けたままのレールが大量に野積みされているのを見かけるようになった。交換用だろうか、それとも交換されたものが放置されてるのだろうか…
チュメニ(2138km)に到着。
シベリアで最も古い都市にして、中学生の頃、世界地理の授業で習ったように、一大産油地として知られている。それ故に、この駅も相応に大規模だ。
20分の停車の間にホームに下りて物売りや売店を冷やかす。ベリャーシを3つとシェーミチキを1袋、それにアイスを買った。43ルーブル也。
しばらくするとバイカル号の後方から、構内入れ換え用の機関車が客車を牽いて入線してきた。真新しい塗装に、旧ソビエトのエンブレムが運転席横に誇らしげに掲げられており、大変カッコイイ。近くまで行って写真を撮った。
写真撮影については、この頃にはかなり警戒心が薄れてきていて、停車駅では割と大胆に撮影するようになっていた。
しかし、それでも周囲を見回して、カメラを取り出しても大丈夫そうかどうかを確認することは忘れない。
この駅では、珍しくカメラを携えている欧米人のカップルを見かけたが、彼らも人目に付かないよう気を付けていたようだ。数回シャッターを切ると、そそくさとカメラをバッグに仕舞っていた。
私の場合は EOS KISS をたすきがけにした上からジャケットを羽織り、遠目にはカメラを持っていることが分からないようにしていた(名付けて「偽装モード」)。
また、ジャケットのポケットには常にデジカメを放り込んでおき、大きなカメラを構えるのがマズそうな時にはこちらで代用した。
この点、今回携行した Sony Cyber-shot U40 は非常にコンパクトで秘匿性に優れており重宝した。レンズ部の角度が変えられるU50ならばモアベターだっただろう。被写体を捉えながらも液晶画面を上方から覗き込めるので、いかにも「写真を撮ってます」という姿勢をとらずに済む。その分だけ人目に付きにくくなるからだ。
このように「擬装モード」だの「秘匿性」だのとばかり言っていたせいか、帰国後、出来上がった写真を見ると何やら盗撮っぽい写真がやたらに多く、がっかりであった。
それにしても、道中、大きなカメラを取り出して駅周辺の写真を撮ったりしている乗客は私以外にはほとんど見かけなかった。
どうみても休暇中の家族旅行、という体の乗客もたくさんいて、日本であればカメラ大活躍と言うシチュエーションだろうに…。
冷戦時代には撮影禁止の場所や施設が多く、また、密告が奨励されていたという話も聞く。
あらぬ嫌疑をかけられぬよう、カメラなんぞ自分でも持たないし、持っている人にも近付かぬに越したことはない…そんなメンタリティが、特にソビエト時代を知っている世代に根強いく残っているからかも知れない…などと勘繰ってみた。
写真を撮るのにも撮られるのにも馴染みが薄く、少なくともまだ趣味としての認識は低いと言う印象を強く受けた。
チュメニを発つと、次の停車駅スヴェルドルフスクまでは約4時間半、ノンストップである。
昨日、ノヴォシビルスクでかなりの人数が下車してしまったらしいが、それにしても我が13号車はひどくひっそりとしている。
そういえば、昨夜、車掌さんから聞いたのか「スヴェルドルフスクから前の車両に日本人が12人乗ってくるってよ」とディマが言っていた。
今日も食堂車でゆっくりと昼食。メインをポークにしてみた。サラダもソーセージ入りのものにしたら少し高くなった。それでもビールまで込みで330ルーブル。
昼食後、自分の車両へ戻る途中、各車両ごとに車掌さんが車内を清掃していた。
掃除機をかけたり通路の手すりや窓を拭いたり、せっせと立ち働いていた。
各車両に備え付けのゴミ箱は定員の割には小さくてすぐに一杯になってしまうのだが、ガイドブック等で散見したような「車掌が走行中の窓から外に放り捨てる」といった光景は目にしなかった。大きなゴミ袋にまとめて停車駅で下ろしていた。
スヴェルドルフスク(1814km)には若干の延着。街そのものの名前は「エカテリンブルグ」という。スヴェルドルフスクというのはソビエト時代の旧称であり、未だに駅名として使われているのだ。
そして、ここはすでに「ヨーロッパ」でもある。
正式にはスヴェルドルフスク・オブラストとチュメンスカヤ・オブラストの境界、キロポストで言うと2102kmが以東がシベリアになるそうだ(「オブラスト」はロシアの行政区分で「〜州」に相当すると思われる)。
しかし、有名な「ヨーロッパ/アジア境界オベリスク(方尖碑)」はスヴェルドルフスクを発ってこの先更に西へ約40km、1777kmキロポスト地点に建てられている。なぜ300km以上もズレているのかは分からない。
4時間以上列車に揺られていたせいか、さすがにここでは皆、ホームに下りて外の空気を楽しんでいる。
件の日本人はお年寄りの一団であった。ロシア人の通訳ガイドが随行している。
ここでディマはトマトとキュウリを補充していた。私もアンズとサクランボのセットに手が出かけたが、明日にはモスクワに着いてしまうし、到底食べ切れなさそうな量だったので、結局何も買わずじまい。
夕方、通り雨に降られた。まだ高い日が雨に濡れた沿線の森や平原の緑、あちこちの家々を照らす…非常に牧歌的でやさしい風景であった。
一応写真は撮ったが、窓がハメ殺しなのがうらめしい。
キロポストが1800kmを切る頃、カメラを用意して通路に出る。「ヨーロッパ/アジア境界オベリスク(方尖碑)」の車窓越し撮影にトライするのだ。
オベリスクは線路の南側、すなわちこの車両では通路側にある。
列車は既に2昼夜を走り、車窓はかなり汚れている。スヴェルドルフスクで拭こうと思ってはいたのだが、いざ停車してみると窓はホームの反対側だった。
最後尾なので拭きに行けないこともなかったが、あまり突飛な行動もしない方が良かろうと思い、「まぁそれも味だ」などと、妥協。
通路を一杯に使いカメラをがっちりと保持して、オベリスクを待ち受ける。…と、そこへ折悪しく車内販売のカートが来てしまった。
なんとか間に合うかと思って通路を空けてやると、店員が思ったよりもたもたしていて、私が窓際に戻ったその瞬間、前方に白い石柱が現れたかと思うと、あっという間に後方に吹っ飛んで行ってしまった。追い越しざまにかろうじて1回だけシャッターを切ることが出来たが…。
結局、あまりぱっとしない写真になってしまったのだが、1777kmキロポストが写り込んでくれたのは全くの偶然でラッキーだった(画像左下隅)。
追い越しざまに撮ったので、キロポストの西側面が写っていることになる。
宮脇俊三 著「シベリア鉄道9400キロ」によると、キロポストは裏表で表記が異なり、モスクワ側(西側)の数字が1、少ないのだそうだ。
従って、この写真では西側が「1777」なので、反対側(東側・ウラジオストク側)は「1778」になっているはずである。
それにしても、昨日、ノヴォシビルスクを過ぎてからと言うもの、次の停車駅までが随分と長くなった。自製の時刻表で計算したところ、
★ウラジオストクからイルクーツクまで、ロシア号では
「全長4104km/停車駅数41/駅間距離の平均…100km/平均時速…60km/h」
であった。これに対し、
★イルクーツクからモスクワまで、バイカル号では
「全長5185km/停車駅数35/駅間距離の平均…148km/平均時速…69km/h」
と、全長が長くなる一方で停車駅数は少なくなる。
ことに–今、まさに走っている–ノヴォシビルスク–モスクワ間は駅間距離が長い(平均240km)。長時間無停車の区間では速度も相当出ているはずである。
等時帯の間隔も狭まって来て、なんとなくせわしない感じのする西側3分の1である。
指さし会話帳を使ってディマと話したところによると、今回、彼の休暇は実に「54日間」もあるのだそうだ。大学生の夏休み並だ。
「家族をアンガルスクにおいて自分だけ休暇旅行か?」と思っていたが、なるほどこれなら旅行終わって家に帰ってからでも、家族と過ごす時間は十分にとれそうだ。なんともうらやましい限りである。
54日間とまでは言わないにしても、せめて1年に1回、2週間くらいのまとまった休暇がとれれば海外旅行だってゆっくり出来るのだが…。
なんて、ボヤいてばかりいても現実は変わらない。欲しいものが無い時は、あきらめるのでなければ自分で作るしかない。自分が望むライフスタイルを自力で構築していこう。
そんなことを考えているところに、車掌さんがお土産を売りに来た。絵葉書とバイカルアザラシの置物を買う。合計200ルーブル。
ペルミU(1434km) 到着。 現地時間はすでに22時頃のはずなのだが、外はまだ明るい。
駅とその周辺には、乗客や駅員以外に一般市民の姿も多く見られた。長い夏の日の無聊を慰めに来ているのか、跨線橋の上から旅客列車の様子を見物する人も少なからずいた。
コンパートメントに戻り売店で買ったビールを飲んでいると、列車はゆっくりと動き出した。
次の駅バレジノまではまたも4時間近い長駆だ。
そう考えると急に眠気がさしてきた。寝台に横になり、肘枕をつくと「晩ご飯どうしようかな」などとボンヤリ考える。