2004年08月25日公開


昨夜、ウスリースク(9177km)に到着した時のこと。

この駅での停車時間は18分と最初の長い停車だ。外を見てももう真っ暗なので、そろそろ寝ようと思っていた。と、そこに制服に身を包んだ軍人が2人、乗り込んで来た。一気に目が覚めてしまった。

すぐに車掌が来て検札と寝具の貸し出しを済ませたところを見ると、どうやら普通の乗客のようだ。やれやれ、一体何事かと緊張してしまったではないか。

軽く会釈してから彼らの様子を伺うと、階級章のかたちが違うところから見て、部下と上官らしい。立ち居振る舞いから見て、私の上の寝台に上った年かさの方が上官で、その向かいに上がったのが部下のようだ。

上官の方は新聞でも読んでいたのか少し遅くまで起きていたらしいが、向かいの部下の方はすぐに寝息をたてはじめた。

23時前に室内灯が一斉に消された。車掌室で集中管理しているのだろう。読書灯を点けてしばらく起きていたが、やがて眠気に誘われるがままに眠り込んだ。

朝方、まだ外が暗いうちに、上の軍人2人が起き出す気配で目が覚めた。

手早く身支度すると、ビキン(8756km)で下りていった。

よくよく見れば手荷物もアタッシュケース程度で、旅行と言う感じではない。制服も着ていたし、リラックスした雰囲気でもなかったので、なんらかの任務での移動だったのかもしれない。

列車がビキンを発つともう一眠りすることにして毛布をかぶる。

やがて列車が停車した気配に再び目を覚ました。

腕時計に目を遣ると7時、そろそろ起きることにして時刻表を見る。この時間からしてダイヤ通りに走っているとすれば ビャーゼムスカヤ(8651km)だろう。

次の乗客が現れた。今度はお婆さん、奥さん、娘さんの母娘三世代。どこまで乗るのかは知らないが、お年寄りに上の寝台使えと言うのも酷な話だと思ったので、上の寝台に移ることにした。

「ちょっと待ってて」と言って(自分ではそう言ったつもり)、荷物を上の寝台に上げ始めた私を、奥さんが制して何か言っている。どうやら敷き布団と毛布だけ片付けて、寝台の半分を空けて座らせてくれということらしい。

とりあえずその通りに寝台を半分空けてあげると、奥さんと娘さんだけ座って、おばあさんは通路の簡易シートに腰掛けている。

1時間ほどして向かいの寝台でぐっすり寝ていたKさんが起きてきて、私と同様に布団を片付けて寝台を空けてあげたので、おばあさんもコンパートメントに移ることが出来た。

奥さんが少しだけ英語の分かる人だったので、英語とロシア語の指さし会話帳を使ってどうにか話をした。

600kmほど先の ブレヤ(8030km)というところまで行くが、今日のうちに着くので寝台はいらない、ビャーゼムスカヤのおばあさんの家に遊びに行ってその帰りで、今度はおばあさんがブレヤにある奥さんと娘さんの家に遊びに行く、ということらしい。

やがて列車は ハバロフスクT(8523km)に着く。カメラ片手に列車を下り、写真を撮る。

ハバロフスク駅

15号車の後ろに、いつの間にかもう1両、2等寝台車が増結されている。昨夜のうちにどこかで連結したのだろうが、全く気が付かなかった。

話に聞くホームでの物売りは、ここではまだほとんどいない。この車両が最後尾だから面倒で誰もわざわざ売りに来ない、というわけでもなさそうだ。車掌だけは、1キロはあろうかというタッパー入りのイクラと干し魚を地元の男性から買い込んでいたが…。

そんな彼らを尻目に車両の写真を撮ろうとすると、車掌に「ニ・ナーダ・フォタグラフィーユ」と言われた。

直訳すると「写真を撮る必要はない」という意味だと思うのだが、それが「写真なんか撮らなくてもいいのに(別に何か特別珍しいものがあるわけでもないのだから)」というアキレを表現したものか、「写真を撮っちゃダメ」という制止を意図したものだったのか、当の車掌が地元の人と談笑しながら言ったので、どちらとも判断はつきかねた。

写真を撮る時には十分に気を付けた方が良い、という話も聞いていたので、数枚撮っただけで車内に引っ込んだ。

コンパートメントに戻ると、母娘連れは空になった隣のコンパートメントに移っていた。これで母娘3人水入らず。良かった良かった。そして入れ替わりに男性が1人、女性が1人乗って来たので、この機会に私は本格的に上の寝台に引っ越すことにした。

若干不便だが、この先またお年寄りが乗って来ないとも限らないし。それに手足も好きなだけ伸ばせるし、下段に比べればプライバシーもいくらかは余計に保てそうだ。

車窓から

荷物を適当に整理し終えると、コーヒーを淹れる。

男性は携帯電話であちこちに電話したり、コンピューター関係の専門書らしきものを読んだりしている。サラリーマンだろうか。

手荷物は少なく、スーツを着た上にバラの花束など持っているところなどから察するに、彼も今日中にどこかで下りるのだろうと予想した。

それにしてもシベリア鉄道で携帯電話を使う場面に出くわそうとは思ってもみなかった。もっとも、このご時世、冷静に考えればそれほど驚くべきことでもないのかもしれないが。

女性の方はというと、歳の頃なら30代後半、こちらは旅行らしいが、乗って荷解きもそこそこに眠り込んでしまっていたので、詳しいことを伺うすべもなかった。

このように早朝から少しバタバタしたので午前中は昼寝。13時頃起きて昼食にすることにした。食堂車に行く。

Tシャツの上に汚れた前かけを着けた従業員と思しき男性に「今メシ食える?」(と言ったつもり)と聞くと「もちろん」と言われた。テーブルに就くようジェスチャーで促される。

ざっと車内を見回すと、車両中央部が客席、前・後部がキッチン、レジのスペースと倉庫(冷蔵庫)にコンバートされている。レジのそばにはバーカウンターが設けられ、ドリンクやスナックを買うことが出来る。

7つか8つほどある(数は失念してしまったが)4人がけのテーブルにはきちんとクロスが敷かれ、グラスや皿などが行儀よく並べられている。

食堂車を利用するのは国内外合わせても生まれて初めてだが、思いのほかちゃんとしたレストランの風情があって嬉しい。

すぐに先ほどの店員がメニューを持って来てくれたのだが、全部ロシア語で手書きで且つ筆記体なので、何が書いてあるのかさっぱりわからない。

会話帳等を持って来なかったので口頭で直接聞いてみる。

「サラダ、スープ、メイン(ビーフステーキとポテト)それにビール」は注文出来たようだ。

左サリャンカ・右サラダ メインディッシュ

サラダはトマト、キュウリにフレンチドレッシングがかかっているごく普通のもの。続いて出て来たのは「サリャンカ」。トマトベースらしいスパイシーなスープにサワークリームを落としてある。これが美味しくて気に入った。一緒に供された黒パンが良く合う。

メインはビーフステーキ。ピューレしたポテト、グリーンピースなどが添えられている。

味にも量にも満足。ビール500mlまで込みで280ルーブル。ビールが冷えてなかったのだけが残念だった。明日はちゃんと「冷えたビール」と注文しなくては…。良い気分でコンパートメントに戻る。

途中、9号車、10号車を通過したが、年式が新しいのだろう、明らかに我が15号車よりコンディションが良い。

通りすがりに9号車の車掌室をちらっと覗くと、ウラジオストク駅で声をかけてきた男性がいた…なんだ、ホンモノの車掌さんだったのか。

コンパートメントに戻って食休みしていると、やがて何度か立て続けにトンネルを通過した。

トンネルの出口、入口に哨所が設けられ、自動小銃を肩にかけた兵士が歩哨に立っていた。軍事施設があるのかもしれなかった。

上の寝台から

それにしても天気が良いこともあって、車内はかなり暑い。にも関わらず、エアコンは故障しているのか点けられていないのか、とにかく動いている気配が無い。

「いい加減どうにかならんかなぁ」と思っていたら、先ほど乗って来るなりずっと寝っぱなしだった私の下の寝台の女性がやおら起き上がり、窓ガラスの上の取っ手に手をかけるとガバッと引き下げた。

途端に外の空気が吹き込んで篭った空気を一気に吹き払った。私を含めた3人からは思わず歓声があがった。目一杯引き下げると20cmくらいは開くようだ。なんで誰も気が付かなかったんだろう…。

女性はこともなげに寝台に横たわるとまた眠りの世界に戻っていった。

オブルチェ(8190km)に到着。案の定、スーツの男性はここで下車した。

ホームにはレーニン像、駅舎には赤い星があしらわれており、旧ソビエト時代の面影を想像させる。ロシアンレトロ?とでも呼ぶべきか。

腕時計を1時間戻す(現地時間=モスクワ+6/日本+1)。

沿線の小集落

列車が動き出すと、寝台に腹ばいになって外を眺める。

することと言えば、現れては消え去る名もない集落、小さな駅から現地の人々の暮らしぶりに思いを巡らせることくらいである。

レールが刻む単調なリズムと、変化の乏しい車窓からの風景に気が付くとウトウトしていたりする。

さすがに手持ち無沙汰だ。本を持って来なかったのが悔やまれる。

一方でロシア人旅行者達は何をしているかと言うと、たいていは寝台に寝そべって、新聞、雑誌やペーパーバックなどを読んでいるか、さもなくばクロスワードパズルを解いているかである。

ロシア人はクロスワードパスルがことのほか好きらしく、売店でも多種多様なパズル本が売られている。

ブレヤ(8030km)着。今朝の母娘三人連れが下車してホームを駅舎の方に歩いている。動き始めた車窓から手を振ると手を振り返してくれた。

ベロゴルスクT(7866km)には30分ほど延着した。

外は少し曇ってはいるものの、まだ明るい。夕食に何か買うつもりで下車。

停車時間が30分と長いので、ここいらで一丁記念写真でも、と思い、同じく下車して来たKさんに EOS KISS を託す。我が15号車のサイドボードの脇に立つと写真を撮ってもらった。

するとグレーの迷彩服に身を固めた2人の警官(兵士?)が歩み寄って来た。

若い方の警官が言った。「パスポートとバウチャーを見せなさい」。

「日本人?目的地は?」と言った、通り一遍の質問をされたものの、結局、お咎め無しでパスポもバウチャーも返してもらえた。

警官は「列車の写真を撮ってはならん」と言うと立ち去った。

ロシアでは警官、軍人の間に不正が横行しており、外国人旅行者はよく狙われるので気を付けろ、と言った話をよく聞いていたので、非常に緊張した。昨夜、軍人2人組が乗車して来た時に驚いたのも、実はその所為だ。

あとで調べてみると、このベロゴルスクTというのは、中国との国境に向かう支線が分岐する駅であった。

ロシアでも中国からの不法密入国には厳しく目を光らせているということだから、そんな駅で、一目でアジア人と分かる人間が構内の写真なんか撮っていたら、尋問くらいはされても不思議はなかったかも知れない…。

しかし、この一件ですっかり萎縮してしまって、写真を撮るペースが鈍ってしまったというのは、我ながら情けない。しかもこの時の写真、カメラの操作ミスらしく撮れてなかったというオチまでついた。

気を取り直して夕食の調達にかかるが、夕食にふさわしいボリューム十分な食べ物は残念ながら売ってなかった。クレープと水1.5リットルを買っただけ。どうにも敗北感濃厚な30分になってしまったな…。

スヴァボードヌィ(7807km)で女性客がもう1人乗ってきた。これで今夜も満席。

ウラジオストクを発って以来、軍人コンビ、母娘三代、サラリーマン男性、窓開けた女性、そしてこの女性でのべ8人目だ。

こんなにも頻繁に乗り降りがあろうとは…落ち着かないこと甚だしい。

おまけにこの車両では、2箇所にあるトイレのうちの車掌室側を乗客に使わせてくれない。

シャワー室に仕立てて、希望する乗客に使わせているらしいのだ。

そのせいで、ほぼ満席の2等車にトイレが1つ、という状況になり、トイレでは何人か待ちになることが多かった。

エアコンの件もあるし、いくらなんでもこれでは「No.1」の名が泣こうと言うものだ。

2等寝台とは言え、なにしろ「No.1」であるし、もう少し優雅な道中を期待していたのだが、このサービス内容では「雑居房」列車か「難民移送列車」と呼ぶ方が的確のように思う。とすれば、車掌はさながら「牢名主」といったところか…

などと考えているうちに、一つの仮説がひらめいた。

15号車のサイドボードだけが「ウラジオストク–オムスク」になっている。ウラジオストクで乗車する前、既に気付いていたが、おおかたサイドボードの枚数が足りないのだろう、くらいに考えていた。

しかし実はオムスク以東で乗り降りする客だけを15号車に固めて、管理しやすくしているのではないか?だからこんなに頻繁に乗客の乗り降りがあるのではなかろうか…そして、オムスクに着いたらこの車両は切り離してしまうのではなかろうか…しかも、「どうせモスクワまで行かないんだから年式の古い車両で良いだろう」ってんで、実はもともとエアコンを装備していないんでは…車掌がシャワーなんか作るのは、エアコンがない分をシャワーで穴埋めしてるんでは…

…もしそうだとしたら、同じ料金を払うのが馬鹿馬鹿しいというものだ。

これらがあながち被害妄想どばかりも言えなさそうなのだ。と言うのも、帰国後、HPの資料を作成する過程で画像を細かくチェックしたところ、15号車の通路に掲示された時刻表からして、ウラジオストクからオムスクまでしか記載されていないものだったからだ。

寝台に潜り込んでからも「ウラジオストク駅であの男性のオファーに応じて9号車に変更しとけば良かったかなぁ、運命の分かれ道と言うのは、後になって振り返ってみて初めてそれと分かるものなのだな、後悔先に立たず、虎穴に入らずんば虎児を得ず…」などなど、果断さに欠ける自分の性格を嘆くことしきりであった。

ちなみにこれも後で調べて分かったことだが、、「モスクワまで100ドルで1等にアップグレード」というのは実は破格のオファーだった。仮に「イルクーツクまでで100ドル」だったとしても、依然、格安には違い無かったのだ。アドリブの効かない自分の性格を嘆くことしばし…。

まぁ、あと明晩一泊でイルクーツクに着いてしまうし、今さら変更するのも面倒臭いから、もぅ我慢することにしよう…。


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